大島神社について

概要

大島神社(おおしまじんじゃ)は、
兵庫県尼崎市にある神社で、
地域住民の氏神として愛されております。

由緒

現今鎮座しているところは縄文や弥生時代には海中であり、地面はまだ存在しておりませんでした。
古墳時代に入りやっと海岸線として出現し、奈良時代、やがて現在阪神電車本線が走る以南まで土地は広がってきたとされています。

平安時代、荘園制度が盛んとなり大島荘もその一つに数えられ、その中の今北、東大島、西大島の総鎮守神として「大島神祠」の四文字が『攝津志』に記録されております。
社殿の創始年代は不詳ですが、平安のころには既に祭祀されていたことが窺い知れます。

ご祭神が須佐男神であるところから「須佐男社」とも記され、また須佐男神と牛頭天王の混合信仰が流行した、江戸時代のある時期には「牛頭天王社」と呼ばれていたこともあります。

近世に入り、延宝2年(1674年)2月の建替えの棟札がありますが、現在の建物は昭和44年「明治維新百年記念事業」として再建されたものです。
境内の手水舎には元禄3年(1690年)、ユーモラスな表情の狛犬は宝暦6年(1756年)の銘が刻まれており、稲荷社前の鳥居も元禄年間に建てられた、近郷では珍しい形の整った美しい姿の明神鳥居をご覧いただけます。

近代に入り、明治22年の神社明細帳や、戦後の宗教法人に記載される「大島神社」が定着し、今日に至っております。

西向きの社殿が珍しく、氏子区域のほぼ東の端に位置し、氏子区域が殆ど神社の西側にあります。
明治初年ごろまで「あばれ川」「人喰い川」など恐れられてきた、武庫川の氾濫を防ぐ「西向きの鎮守さま」と崇敬されてきたという説がございます。

鎮座地名も次々と変遷し、摂津国武庫郡大庄村の内今北村、武庫郡大庄村大字今北、摂津武庫郡今北村、時には今北字東宮本壱番森林ともいわれておりました。

尼崎市と大庄村合併後の現在は、今北字宮本東、昭和58年住居表示変更により、尼崎市大庄北一丁目となりました。

ご祭神

須佐男神(すさのおのかみ)

古事記・日本書紀・出雲国風土記などに見える複雑な性格を持つ英雄神様。
古事記では伊邪那岐(いざなぎ)命の鼻から産まれたとし、日本書紀では伊邪那岐命・伊邪那美(いざなみ)命から産まれたとされております。
天照大御神の弟で月読(つきよみ)命とともに三貴神の一神。

すさは進む、荒ぶの意味で荒々しい振舞いの話が多く伝えられております。
乱暴な行いが多く、高天原(たかまのはら)を追放され、出雲の国に下られました。
出雲の国では八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を得、奇稲田媛命(くしいなだひめのみこと)を娶られました。農業神、疫病神、水神など多面的な神とされております。
インドの祇園精舎の守護神といわれる疫病の神様、牛頭天王(ごずてんのう)と同一視され信仰されてきました。

用語解説

牛頭天王(ごずてんのう)
インドの祇園精舎の守護神(疫病神)
祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)
スダッタ(須達多)が釈迦のために、コーサラ国のジェータ(祇陀・ぎだ)王子から譲り受けた土地(マンゴー樹園)に建てた寺院。
スダッタ(須達多)
古代のインド人。資産家。
身寄りのない人達を助け、食事を施していたので「給孤独」(ぎっこどく)と呼ばれていた。
祇園(ぎおん)
祇樹給孤独園(ぎじゅぎっこどくおん)の略。祇陀の「祇」・樹園の「樹」・スダッタの別名「給孤独」・樹園の「園」で祇樹給孤独園。

天照大御神
(あまてらすおおみかみ)

古事記では、伊邪那岐命が左の目を洗った時に産まれたとし、日本書紀では、伊邪那岐命、伊邪那美命が、天下の主となる神として産んだとされております。
この神は須佐男神との誓約、国譲りの神話など多くの神話に登場しており、とくに須佐男神の乱暴に怒って天の岩戸に隠れたために世の中が闇夜となりましたが、再び現れると、闇の世界から光り輝く世界へと戻ったという神話は、日の神・太陽神としての神格を表現したものといえます。月読命との離反によって昼と夜とが分かれた話が日本書紀の一書にみえ、太陽神・天皇家の祖先神といわれております。

天津児屋根命
(あまつこやねのみこと)

大和朝廷の祭祀をつかさどった中臣氏(藤原氏)の祖先神。
天照大御神が天石屋戸に隠れた時、布刀玉(ふとたま)命とともに卜占を行い、祝詞を奏上しました。
天石屋戸の側に天手力男(あめのたぢからお)神が隠れ、天宇受売(あめのうずめ)命が天石屋戸の前で舞を舞うと八百万の神々が笑いだし、天照大御神が不思議に思って天石屋戸をわずかに開いたところを天手力男神が天照大御神の手を取って引っぱり出されました。
そして世の中に再び光が射すようになった、と古事記には記されております。
日本書紀の一書には、布刀玉命と共に天照大御神を祀る神殿の守り神になるよう命じられたと記されております。

応神天皇(おうじんてんのう)
別称:誉田別尊

第十五代天皇。
仲哀天皇の第四子、母は神宮皇后。古事記では大鞆和気(おおともわけ)命、またの名を品陀和気(ほむだわけ)命と申します。
産まれた時に腕に鞆(とも)のようなぜい肉がついていたのが名前の由来とされており、日本書紀では誉田別(ほむだわけ)尊。
誉田別尊は「八幡さま」という名称で広く親しまれております。
全国各地にある八幡神社の総本社は宇佐神宮(大分県鎮座)で、八幡信仰の発祥地とされています。
宇佐神宮の社伝「八幡宇佐宮御託宣集」には、宇佐の地に八幡さまが初めてご示現されたのは欽明天皇の御代で、馬城峯(まきのみね、現在の御許山)に顕れ、欽明天皇三十二年(五七一)には小椋山(現在の菱形山、亀山ともいう)の菱形池の辺に神霊が顕れ「われは誉田天皇広幡八幡麻呂なり」とお告げを下されたとあります。
誉田天皇とは応神天皇のことであるので、応神天皇は八幡さまであるといわれるようになりました。

市杵島姫命
(いちきしまひめのみこと)

古事記では市寸島比売命、またの名を狭依毘売(さよりびめ)命。
日本書紀では市杵島姫、一書には瀛津島姫(おきつしまひめ)、別の一書には瀛津島姫命と記されております。
天照大御神と須佐男神が天の安河原で誓約を行った時に産まれた三女神中の一神。
奥津島比売(おきつしまひめ)命・多岐津比売(たぎつひめ)命とともに宗像の神として知られ、航海の神とされております。

底筒男命
(そこつつおのみこと)

上(うわ)筒男命、中(なか)筒男命とともに住吉神社に祀られ、航海の神とされております。
古事記では、伊邪那岐命が黄泉の国から戻り禊をした時に産んだとされております。
この時水の底の方に潜った時に産まれたのが底津綿津見(そこつわたつみ)神・底筒之男命、中ほどを潜った時に産まれたのが中津綿津見神・中筒之男命、水の表面を潜った時に産まれたのが上津綿津見神・上筒之男命。底津綿津見神・中津綿津見神・上津綿津見神は海人の大豪族である阿曇連(あづみのむらじ)の祖先となったとされております。
日本書紀には、この時産まれたのは底津少童(そこつわたつみ)命・底筒男命・中津少童命・中筒男命・表津少童命・表筒男命と記されています。

蛭子命(ひるこのみこと)

古事記には水蛭子(ひるこ)と記されております。
淤能碁呂嶋(おのごろじま)に天降った伊邪那岐命と伊邪那美命が最初に産んだ神ですが、不具の子として産まれ、その後、葦の舟に乗せて流しました。
日本書紀には、天照大御神、月読神に次いで生まれたのが蛭兒(ひるこ)とされており、3年たっても脚が立たなかったので舟に乗せて流したと記されております。記紀にはその後のことは記されておりませんが、神皇正統録・源平盛衰記には摂津の国に漂着し、土地の人々は夷三郎殿と呼び、戎大神として祀ったと伝えております。
このエビス(戎・夷・恵比寿)は海上安全や漁業の海の神、また海産物市場・商店の繁栄の市の神、商売繁昌の福の神としての信仰が持たれていくこととなります。

氏子区域

旧地名

  • 今北
  • 東大島
  • 西大島

現在の地名

大庄北 1~5丁目
稲葉元町 1~3丁目
稲葉荘 1~4丁目
西立花町 4丁目、2~5丁目の一部
※別図参照
大島 1~3丁目
大庄中通 1丁目
大庄川田町

西立花町の氏子範囲

氏子範囲

※斜線の範囲が氏子範囲となっております。詳しくはお問い合わせくださいませ。